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新编 日本书纪 卷二十 敏达天皇 渟中仓太珠敷天皇
日本书纪 卷二十 敏达纪


渟中仓太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと) 敏达天皇(びだつてんわう)


百济川
百济大井宫,其比定地有诸说。其一,『和名抄』有河内国锦部郡百济乡。其二,十二年是岁条有石川百济村。其三,同舒明帝百济宫。其四,天香久山西麓,东、西百济。以安闲至舒明诸帝佥宫在奈良,故三、四较可信。


乌鸦之羽
高丽上乌羽表,墨羽皆黑不能辨。辰尔蒸羽于饭气,以帛印之而得识


前贤故实 王辰尔
船氏远祖。钦明朝渡来,有睿智,尤以「乌羽表」逸事闻名。
一、高丽乌羽上表文

渟中仓太珠敷天皇(ぬなくらのふとたましきのすめらみこと)天国排开广庭(あめくにおしはらきひろには)天皇第二子也。母曰石姬皇后(いしひめのきさき)【石姬皇后,武小广国押盾(たけをひろくにおしたて)天皇女也。】
天皇不信佛法(ほとけのみのり),而爱文史(しるしふみ)
二十九年,立为皇太子(ひつぎのみこ)
三十二年,四月天国排开广庭(钦明)天皇崩。
元年,夏四月壬申朔甲戌(),皇太子即天皇位。尊皇后曰皇太后(おほきさき)
是月,宫于百济大井(くだらのおほゐ)。以物部弓削守屋大连(もののべのゆげのもりやのおほむらじ)大连(おほむらじ),如故。以苏我马子宿祢(そがのうまこのすくね)大臣(おほおみ)
五月壬寅朔(),天皇问皇子与大臣曰:「高丽使人(こまのつかひ)今何在?」大臣奉对曰:「在于相乐馆(さがらかのむろつみ)。」天皇闻之,伤恻极甚(いたみにへさなり)愀然(みこころあよく)而叹曰:「悲哉,此使人等,名既奏闻于先考天皇(さきのすめらみこと)矣。」乃遣群臣相乐馆,检录(かむがへしるし)所献调物(みつきもの),令送京师(みやこ)
丙辰(十五),天皇执高丽表䟽(ふみ),授于大臣。召聚诸史(もろもろのふびと),令读解之(よみとかしむ)。是时诸史于三日内,皆不能读。爰有船史(ふねのふびと)王辰尔(わうじんに),能奉读释(よみとき)。由是天皇与大臣,俱为赞美(ほめ)曰:「勤乎(いそしきかも),辰尔!汝若不爱于(まなぶこと),谁能读解?宜从今始,近侍殿中(とののうち)。」既而诏东西(やまとかふち)诸史曰:「汝等所习之业,何故不就?汝等虽众,不及辰尔。」
又,高丽上表疏,书于乌羽(からすのは)。字随羽黑,既无识者。辰尔乃蒸羽于饭气(いひのけ),以(ねりきぬ)印羽,悉(うつす)其字。朝庭(みかど)异之(あやしむ)
六月,高丽大使(おほつかひ)副使(そひつかひ)等曰:「矶城嶋(しきしま)天皇时,汝等违吾所议,被欺于他,妄分国调(くにのみつき),輙与微者(いやしきひと)。岂非汝等过欤?其若我国王(くにのきみ)闻,必诛汝等!」副使等自相谓之曰:「若吾等至国时,大使显噵(あらはしまをさば)吾过,是不祥(さがなき)事也。思欲偷杀(ひそかにころし)而断其口。」
是夕谋泄(はかりこともりぬ)。大使知之,装束衣带(よそひし),独自潜行(かくれゆく)。立馆中庭(なかには)不知所计(せむすべしらず)
时有贼一人,以(つゑ)出来,打大使头而退。次有贼一人,直向大使,打头与手而退。大使尚嘿然(もだ)立地而(のごふ)面血。更有贼一人,执(かたな)急来,刺大使腹而退。是时大使恐伏地(をろがむ)。后有贼一人,既杀而去。
明旦(くるつあした)领客东汉坂上直子麻吕(まらひとのつかさやまとのあやのさかのうへのあたひと)等,推问(かむがへとふ)其由。副使等乃作矫诈(いつはりこと)曰:「天皇赐妻于大使。大使违(みことのり)不受。无礼兹甚(ゐやなきことこれはなはだし),是以臣等(おほみため)天皇杀焉。」有司(つかさ)以礼收葬(をさめはぶる)
秋七月,高丽使人罢归。是岁(ことし),太岁壬辰

二、断罪吉备海部直难波

二年,夏五月丙寅朔戊辰(),高丽使人泊于越海(こしのうみ)之岸。破船(ふねわれ)溺死(おぼほれしぬる)者众。朝庭(うたがひ)(まとふ)路,不飨放还(かへしつかはす)。仍敕吉备海部直难波(きびのあまのあたひなには),送高丽使。
秋七月乙丑朔(),于越海岸,难波与高丽使等相议,以送使(おくるつかひ)难波船人大嶋首磐日(おほしまのおびといはひ)狭丘首间狭(さをかのおびとませ),令乘高丽使船,以高丽二人,令乘送使船。如此互乘,以备姧志(かだみのこころ)。俱时发船,至数里许。送使难波,乃恐畏波浪(なみ),执高丽二人,掷入(なげいる)于海。
八月甲午朔丁未(十四),送使难波还来复命(かへりごとまをし)曰:「海里鲸鱼(くぢら)大有,遮囓(たへくふ)船与檝棹(かぢさを)。难波等恐(いを)吞船,不得入海。」天皇闻之,识其谩语(いつはりこと)駈使(つかひ)于官,不放还(ゆるしつかはさず)国。
三年,夏五月庚申朔甲子(),高丽使人泊于越海之(きし)
秋七月己未朔戊寅(廿),高丽使人入京奏曰:「臣等去年相逐(あひしたがひ)送使,罢归于国。臣等先至臣蕃(やつこのくに)。臣蕃即(なぞらへ)使人之礼,礼飨(ゐやまひあへ)大嶋首磐日等。高丽国王别以厚礼礼之。既而送使之船,至今未到。故更谨(まだし)使人并磐日等,请问臣使不来之意(かへりきたらざるこころ)。」天皇闻,即(せめ)难波罪曰:「欺诳(あざむく)朝庭,一也。溺杀(おぼほらしころせ)邻使,二也。以兹大罪(おほきなるつみ),不合放还!」以(さだむ)其罪。
冬十月戊子朔丙申(),遣苏我马子大臣于吉备国(きびのくに),增益白猪屯仓(しらゐのみやけ)田部(たべ)。即以田部名籍(なのふみた),授于白猪史胆津(しらゐのふびといつ)
戊戌(十一),诏船史王辰尔弟(うし),赐姓为津史(つのふびと)
十一月新罗(しらき)遣使进调。


越海 敦贺湾
与北陆道相邻之日本海古称。


野中寺
王辰尔船氏宗庙。此外葛井氏宗庙葛井寺,津氏宗庙善正寺。


春日神社 传译语田幸玉宫迹
幸玉宫亦名他田宫【古事记】、乎沙多宫【天寿国曼荼罗绣帐】、乎娑阤宫【船首王后墓志】、磐余译语乎佐田宫日本灵异记等。


南波大别王寺迹 和气山统国寺
传南波大别王寺,或『日本灵异记』所载南波百济寺迹。又难波乃物部氏势力范围,当以反佛著称,当时何能建此佛寺,至今存谜。


伊势 斋宫寮复原模型


兴福寺 东金堂
圣德太子传历』云敏达帝八年,新罗进释迦佛像,今在兴福寺东金堂。然今不存,不详真伪。


初濑川、三轮山
泊濑者,即初濑川也。自奈良樱井东北部付近,流经三轮山傍,至奈良盆地,注入大和川。
三、与新罗、百济交涉

四年,春正月丙辰朔甲子(),立息长真手王(おきながまてのおほきみ)广姬(ひろひめ)为皇后,是生一男二女。
其一曰,押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとおほえのみこ)【更名,麻吕古(まろこ)皇子。】
其二曰,逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)
其三曰,菟道矶津贝皇女(うぢのしつかひのひめみこ)为伊势斋。矶津贝三字,盖衍。
是月,立一夫人(みめ)春日臣仲君(かすがのおみなかつこ)女,曰老女子夫人(おみなごのおほとじ)【更名,药君娘(くすりこのいらつめ)。】生三男一女。
其一曰,难波皇子(なにはのみこ)
其二曰,春日皇子(かすがのみこ)
其三曰,桑田皇女(くはたのひめみこ)
其四曰,大派皇子(おほまたのみこ)
次,采女(うねめ)伊势大鹿首小熊(いせのおほかのおびとをくま)女,曰菟名子夫人(うなこのおほとじ)
生,太姬皇女(ふとひめのみこ)【更名,樱井皇女(さくらゐのひめみこ)。】糠手姬皇女(あらてひめみこ)【更名,田村皇女(たむらのひめみこ)。】
二月壬辰朔(),马子宿祢大臣还于京师,复命屯仓之事。
三月乙卯朔乙丑(十一)百济(くだら)遣使进调,多益恒岁(つねのとし)
天皇以新罗未建任那(みまな),诏皇子与大臣曰:「莫懒懈(おこたり)于任那之事。」
夏四月乙酉朔庚寅(),遣吉士金子(きしかね),使于新罗。吉士木莲子(きしのいたび),使于任那。吉士译语彦(きしのをさひこ),使于百济。
六月,新罗遣使进调,多益常例(つねのあと)。并进多多罗(たたら)须奈罗(すなら)和陀(わだ)发鬼(ほちくゐ),四邑之调。
是岁,命卜者(うらべ),占海部王家地(あまのおほきみのいへどころ)丝井王(いとゐのおほきみ)家地。卜便袭吉(よし)。遂营宫于译语田(をさだ)。是谓幸玉宫(さきたまのみや)
冬十一月,皇后广姬(かむさり)
五年,春三月已卯朔戊子(),有司请立皇后。
诏立丰御食炊屋姬尊(とよみけかしきやひめのみこと)为皇后。是生二男五女。
其一曰,菟道贝鮹皇女(うぢのかひたこのひめみこ)【更名,菟道矶津贝皇女(うぢのしつかひのひめみこ)也。】是嫁于东宫圣德(ひつぎのみこしやうとく)
其二曰,竹田皇子(たけだのみこ)
其三曰,小垦田皇女(をはりたのひめみこ)。是(みあひ)于彦人大兄皇子。
其四曰,鸬鹚守皇女(うもりのひめみこ)【更名,轻守皇女(かるのもりのひめみこ)。】
其五曰,尾张皇子(をはりのみこ)
其六曰,田眼皇女(ためのひめみこ)。是嫁于息长足日广额天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)
其七曰,樱井弓张皇女(さくらゐのゆみはりのひめみこ)
六年,春二月甲辰朔(),诏置日祀部(ひまつりべ)私部(きさきちべ)
夏五月癸酉朔丁丑(),遣大别王(おほわけのおほきみ)小黑吉士(をぐろのきし)(みこともち)于百济国。王人(つかひ)奉命,为使三韩(みつのから),自称为宰。言宰于韩,盖古之典(いにしへののり)乎,如今(いま)言使也。(あたし)皆仿此。大别王,未详所出(いづるところ)也。】
冬十一月庚午朔(),百济国王付还使(かへるつかひ)大别王等,献经论(きやうろん)若干卷,并律师(りつし)禅师(ぜんじ)比丘尼(びくに)呪禁师(じゆこむのはかせ)造佛工(ほとけつくるたくみ)造寺工(てらつくるたくみ),六人。遂安置难波(なには)大别王(てら)
七年,春三月戊辰朔壬申(),以菟道皇女(うぢのひめみこ),侍伊势祠(いせのまつり)。即姧池边皇子(いけへのみこ),事显而解。
八年,冬十月,新罗遣枳叱政奈末(きしさなま)进调,并送佛像(ほとけのみかた)
九年,夏六月,新罗遣安刀奈末(あとなま)失消奈末(しせうなま)进调。不纳以还之。
十年,春闰二月虾夷(えみし)数千,寇于边境(ほとり)。由是,召其魁帅绫糟(あやかす)等,魁帅(ひとごのかみ)者,大毛人(おほえみし)也。】诏曰:「惟,儞虾夷者大足彦(おほたらしひこ)天皇之世,合杀者斩,应原(ゆるすべき)者赦。今朕遵彼前例(さきのあと),欲诛元恶(もはらあしき)。」于是,绫糟等惧然恐惧(おぢかしこまり),乃下泊濑(はつせ)中流,面三诸岳(みもろのをか)(すすり)水而(ちかひ)曰:「臣等虾夷,自今以后,子子孙孙(うみのこのやそつつき)古语(ふること)云,生儿八十绵连(うみのこのやそつつき)。】清明心(きよきあかきこころ),事奉天阙(みかど)。臣等若违盟者,天地诸神(あめつちのもろもろのかみ)及天皇(みたま),绝灭臣种(やつこがつぎ)矣。」
十一年,冬十月,新罗遣安刀奈末、失消奈末进调。不纳(をさめたまはず)以还之。

四、任那复兴计划,日罗进言

十二年,秋七月丁酉朔(),诏曰:「属我先考天皇(钦明帝)之世,新罗灭内官家(うちつみやけ)之国。天国排开广庭(钦明)天皇二十三年,任那为新罗所灭。故云,新罗灭我内官家也。】先考天皇谋复任那,不果而崩,不成其志。是以朕当奉助神谋(あやしきはかりごと)复兴(おこしたつ)任那。今在百济火苇北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこありしと)达率日罗(だちそちにちら),贤而有(いさみ)。故朕欲与其人相计。」乃遣纪国造押胜(きのくにのみやつこおしかつ)吉备海部直羽嶋(きびのあまのあたひはしま),唤于百济。
冬十月,纪国造押胜等,还自百济。复命于朝曰:「百济国(にりむ)奉惜日罗,不肯听上。」
是岁,复(つかはし)吉备海部直羽嶋,召日罗于百济。
羽嶋既之百济,预先(ひそかに)见日罗,独自向家门底(かどもと)。俄而有家里来韩妇(からのめ),用韩语(からさひづり)言:「以汝之(),入我根内(ねのうち)。」即入家去。羽嶋便觉其意,随后而入。于是,日罗迎来,把手使坐于座,密告(しのびにつけ)之曰:「仆窃闻之,百济国主奉疑天朝(みかど),奉遣(やつかれ)后,留而弗还。所以奉惜不肯奉进。宜宣敕时,现严猛色(いつくしくたけきおもへり)催急(うながしつつすむやけく)召焉。」羽嶋乃依其(はかりこと),而召日罗。
于是,百济国主怖畏(おぢかしこみ)天朝,不敢违敕。奉遣以日罗、恩率(おんそち)德尔(とくに)余怒(よぬ)哥奴知(かぬち)参官(さむくわん)柂师(かぢとり)德率次干德(とくそちしかんとく)水手(かこら)等,若干人。
日罗等行到吉备儿嶋屯仓(こじまのみやけ),朝庭遣大伴糠手子连(おほとものぬかでこのむらじ)慰劳焉(やすめねぎらはしむ)。复遣大夫(まへつきみ)等于难波馆(なにはのむろつみ),使访日罗。是时日罗被甲乘马,到门底下(もと),乃进厅前(まつりごとどののまへ)进退跪拜(ふるまひをろがみ),叹恨而曰:「于桧隈宫御寓(ひのくまのみやにあめのしたしらしめす)天皇之世,我君大伴金村大连(おほとものかなむらのおほむらじ)奉为国家(みかど),使于海表(わたのほか)火苇北国造刑部靫部(をさかべのゆけひ)阿利斯登之子,臣达率日罗,闻天皇召,恐畏(かしこみ)来朝。」乃解其甲,奉于天皇。乃营馆于阿斗桑市(あとのくはのいち),使住日罗,供给随欲。
复遣阿倍目臣(あへのめのおみ)物部贽子连(もののべのにへこのむらじ)、大伴糠手子连,而问国政(くにのまつりごと)于日罗。日罗对言:「天皇所以治天下政,要须(かならず)护养黎民(たみ)。何遽兴兵,翻将失灭?故今合议者(はかりごとひと)仕奉朝列(みかど)臣、连、二造(ふたつのみやつこ)【二造者,国造、伴造(とものみやつこ)也。】下及百姓(おほみたから),悉皆饶富(にぎはひとみ),令无所乏。如此三年,足食足兵,以悦使民。不惮水火(みづひ),同(うれへむ)国难。然后多造船舶(ふね),每津列置,使观客人(となりのまらひと),令生恐惧。尔乃,以能使(よきつかひ)使于百济,召其国王(にりむ)。若不来者,召其大佐平(だいさへい)王子(せしむ)等来。即自然心生钦伏(つつしみしたがふ)。后应问罪。」又奏言:「百济人谋言:『有船三百,欲请筑紫(つくし)。』若其实请,宜阳赐予(いつはりてたまはる)。然则百济欲新造国,必先以女人(めのこ)小子(わらは),载船而至。国家望于此时,壹岐(いき)对马(つしま)多置伏兵(かくしいくさ),候至而杀。莫翻被诈(あざむかれ)。每于要害(ぬみ)之所,坚筑垒塞(そこ)矣。」
于是恩率、参官,临罢国时,旧本(ふるふみ),以恩率为一人,以参官为一人也。】窃语德尔等言:「计吾过筑紫(ばかり),汝等偷杀日罗者,吾具白王,当赐高爵(たかきかうぶり)。身及妻子,垂荣于后。」德尔、余奴皆听许焉。
参官等遂发途(みちたちす)血鹿(ちか)。于是,日罗自桑市村(くはのいちむら)迁难波馆。德尔等昼夜相计(ひるよるあひはかり),将欲杀。时日罗身光,有如火焰(ほのほ)。由是德尔等恐而不杀。遂于十二月晦(しはすのつごもり),候失光,杀。日罗更苏生(よみがへり)曰:「此是我駈使奴(つかひやつこ)等所为,非新罗也。」言(をはり)而死。(あたり)是时,有新罗使。故云尔也。】
天皇诏贽子大连(にへこのおほむらじ)、糠手子连,令收葬于小郡西畔丘前(をごほりのにしのほとりのをかのさき)。以其妻子(めこ)、水手等,居于石川(いしかは)。于是,大伴糠手子连议曰:「聚居一处,恐生其(はかりこと)。」乃以妻子居于石川百济村(くだらのむら),水手等居于石川大伴村(おほとものむら)收缚(とらへゆはひ)德尔等,置于下百济河田村(しもつくだらのかはたのむら)。遣数大夫,推问其事。
德尔等伏罪言:「(まことなり)。是恩率、参官教使为也。仆等为人之下(ひとのしも),不敢违矣。」由是下(ひとや),复命朝庭。乃遣使于苇北,悉召日罗眷属(やから),赐德尔等任情决罪(つみせしむ)。是时苇北君(あしきたのきみ)等,受而皆杀,投弥卖嶋(みめしま)【弥卖嶋,盖姬嶋(ひめしま)也。】日罗移葬于苇北。于后,海畔(うみへた)者言:「恩率之船,被风(いり)海。参官之船,漂泊津嶋(つしま),乃始得归。」


本庄磨崖佛 日罗上人坐像
传日罗自刻像。


满性寺藏 圣德太子绘像
图中日罗居右,慧慈居左。


血鹿
五岛列岛,或其中小值贺岛。


日罗公之墓


元兴寺
圣德太子传历』云弥勒石像,今在古京之元兴寺东金堂。


本明寺 石川精舍迹
马子于石川宅修置佛殿。


大野丘北 明日香村丰浦
大野丘北塔,『元兴寺』缘起云:「立剎柱于止由良佐崎。」盖明日香村丰浦前欤。
五、苏我马子崇佛

十三年,春二月癸巳朔庚子(),遣难波吉士木莲子,使于新罗。遂(ゆく)任那。
秋九月,从百济来鹿深臣(かふかのおみ)【阙名字()。】弥勒石像(みろくのいしのみかた)一躯。佐伯连(さへきのむらじ)【阙名字。】有佛像一躯。
是岁,苏我马子宿祢请其佛像二躯,乃遣鞍部村主(くらつくりのすぐり)司马达等、池边直冰田(いけへのあたひひた),使于四方(よも),访觅修行者(おこなひひと)。于是唯于播磨国(はりまのくに),得僧还俗者(ほふしかへりのひと),名高丽惠便(こまのゑべん)
大臣乃以为师,令度司马达等(しまのたちと)(しま),曰善信尼(ぜんしんのあま)【年十一岁。】(いへです)善信尼弟子二人。其一,汉人夜菩(あやひとやぼ)之女丰女(とよめ),名曰禅藏尼(ぜんざうのあま)。其二,锦织壶(にしこりのつふ)之女石女(いしめ),名曰惠善尼(ゑぜんのあま)【壶,此云つふ(都符)。】马子独依佛法,崇敬三尼。乃以三尼,付冰田直(ひたのあたひ)与达等,令供衣食。
经营佛殿(ほとけのおほとの)于宅东方,安置弥勒石像。屈请(いませ)三尼,大会设斋(をがみす)。此时达等得佛舍利(ほとけのしやり)斋食(いもひ)上,以舍利献于马子宿祢。马子宿祢试以舍利,置铁质(くろがねのあて)中,振铁锤(くろがねのつち)打。其质与锤,悉被摧坏(くだけやぶれぬ),而舍利不可摧毁。又投舍利于水,舍利随心所愿(ねがひ)浮沉(うきしづむ)于水。
由是,马子宿祢、池边冰田、司马达等,保信(たもちうけ)佛法,修行不懈(おこたらず)。马子宿祢亦于石川宅(いしかはのいへ)修置(つくる)佛殿。佛法之初,自兹而作(これよりおこれり)
十四年,春二月戊子朔壬寅(十五),苏我大臣马子宿祢起(たふ)大野丘(おほののをか)北,大会(だいゑ)设斋。即以达等所获舍利,藏塔柱头(はしらかみ)
辛亥(廿四),苏我大臣患疾(やまひす)。问于卜者,卜者对言:「祟于父时所祭佛神(ほとけ)之心也。」大臣即遣子弟(やから),奏其占状(うらかた)。诏曰:「宜依卜者之言,祭祠(いはひまつれ)父神。」大臣奉诏,礼拜(ゐやびをがむ)石像,乞延寿命(いのち)。是时,国行疫疾(えやみ),民死者众。

六、物部守屋等破佛

三月丁巳朔(),物部弓削守屋大连与中臣胜海大夫(なかとみのかつみのまへつきみ)奏曰:「何故不肯用臣言?自考天皇(ちちのみかど),及于陛下(きみ),疫疾流行(あまねくおこり)国民(くにのたみ)可绝!岂非专由苏我臣之兴佛法欤?」诏曰:「灼然(いやちこ)。宜断佛法。」
丙戌(),物部弓削守屋大连自诣于寺,踞坐胡床(あぐら)斫倒(きりたふし)其塔,纵火燔之,并烧佛像与佛殿。既而取所烧余佛像,令弃难波堀江(ほりえ)
是日,无云风雨。大连被雨衣(あまきぬ)诃责(せめ)马子宿祢与从行法侣(みのりのひとごも),令生毁辱之心(やぶりはづかしむるこころ)。乃遣佐伯造御室(さへきのみやつこみむろ)【更名于闾碍(おろげ)也。】唤马子宿祢所供善信等尼。由是,马子宿祢不敢违命,恻怆啼泣(いたみなげきいさちつつ)唤出尼等,付于御室。有司便夺尼等三衣(さむえ)禁锢,楚挞海石榴市亭(つばきちのうまやたち)
天皇思建任那,差坂田耳子王(さかたのみみこのおほきみ)为使。属此之时,天皇与大连(にはかに)患于(かさ),故不果遣。诏橘丰日皇子(たちばなのとよひのみこ)曰:「不可违背考天皇(钦明帝)敕,可勤修(つとめをさむ)乎任那之政也!」又,发疮死者,充盈(みちみてり)于国。其患疮者言:「身如被烧被打被摧!」啼泣而死。老少(おいたるもわかきも)窃相语曰:「是烧佛像罪矣。」
夏六月,马子宿祢奏曰:「臣之疾病,至今未愈(いえず)。不蒙三宝(さむぽう)之力,难可救治。」于是,诏马子宿祢曰:「汝可独行佛法。宜断余人(あたしひと)。」乃以三尼,还付马子宿祢。马子宿祢受而欢悦,叹未曾有(めづらしきこと),顶礼三尼。新营精舍(みてら),迎入供养(いたはりやしなふ)

秋八月乙酉朔己亥(十五),天皇病弥留(おもり),崩于大殿(おほとの)。是时起殡宫(もがりのみや)广濑(ひろせ)
马子宿祢大臣配刀而(しのひこと)。物部弓削守屋大连听然而咲(あざわらひ)曰:「如中猎箭(ししや)雀鸟(すずめ)焉!」次,弓削守屋大连手脚摇震(てあしわななきふるひ)而诔。【摇震,战栗(ふるひわななく)也。】马子宿祢大臣咲曰:「可悬(すず)矣!」由是二臣(やくやくに)生怨恨。
三轮君逆(みわのきみさかふ),使隼人(はやひと)相距于殡庭(もがりのには)穴穗部皇子(あなほべのみこ)欲取天下,发愤(いきどほり)称曰:「何故事死王(すぎたまひしきみ)之庭,弗事生王(いけるきみ)(みもと)也?」

日本书纪卷二十


石川佛殿大野佛塔烧却之图


海柘榴市 佛教传来之地碑
时国行疫疾,物部守屋推其由,当苏我兴佛之弊。故破佛,有司夺尼三衣禁锢,楚挞海石榴市亭。


广濑大社
广濑,传敏达帝殡宫、式内社广濑神社之所在。其有大和国广濑郡广陵町说,亦有奈良盆地全河川合流处之川合说。

【久远の绊】【卷十九】【卷廿一】【再临诏】